2014年9月7日日曜日

人は死後、何年ぐらいで評価されるとよいのか?


音声はこちらです。

人は死後、何年ぐらいで評価されるとよいのか?



このブログで一度、父が私に教えてくれたことを書いた。「クニ、生きている間に評価される人間になるな。認められるのは死後で良い」と言われた。その時には「そうかな」と思っただけだったが、今になるとよくわかる。

社会は現状を正しいとする。紫式部が生きていた平安時代は、貴族、平民、貧民がいて、身分制度が普通だった。そんな時、「人はみな、平等」などと言ったら袋だたきに遭うだろう。ソクラテスは街頭で議論をした罪で死刑になった。ガリレオは地球が回っていると主張して牢獄に入れられた。それより何より2000年にわたって世界の人の心に響く言葉を言ったイエス・キリストは3年の活動で十字架にかけられる。

人間社会とはそういうものである。でも、自分がこの世に生を受け、自分が正しいと思ったことをして、飢えず、凍えず、死刑にならなければ、それで幸運だ。評判が良くなって少しの小銭をもらっても人生は変わらない。お金があったり名誉を得たりするとそれだけでも面倒だ。

でも、自分に家族がいて、子供がいると、自分は良いけれど、せめて家族には「立派なお父さんだった」と世間から評価されて欲しいと思う。そうすると、死後、早めがよいからせいぜい、30年ぐらいの間に評価されたいとも思う。そうすると、孫が「僕のお父さんはこんなに立派だったんだ」と威張れるだろう。

あるとき、私の文章が高等学校の国語の教科書に収録された。それ自体はとても名誉なことだったが、さして嬉しくはなかった。ところが、遠くに離れている甥が「おじちゃん、教科書に載っていたよ!」と言ってくれたことが無性に嬉しかった。

サルは餌を獲得すると一目散に群れから離れ、背を向けて食べる。でも、人は別の人と一緒に食卓を囲み、美味しいと言って食べると健康になる。人間がこれほど繁栄しているのは、「自分だけが食べようとしていた食料を、人と共に食べる」ことができるからだろう。シェアーする、デディケーション(献身)する、それがおそらく人間の無上の幸福にそういない。

さすれば、人の幸福は結果で決まるものではなく、経過ですでにすべてが決まっているのだろう。オヤジの教えに逆らうわけではないが、私の人生は生前に評価されるか、死後認められるかでもなく、それをした時にすでに完結しているように思う。

(平成26年9月1日)

武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ






PAGE
TOP